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正式名称は知らない 塾が始まり早ひと月。勉強熱心な周りからの触発もあって少しずつ兄さんも自覚が生まれたようで、最近は自分から机に向かうようになった。今も自室で課題をやっている。大変喜ばしいことだ。 ことだ、が。 「……」 僕はいまいち集中できていなかった本から顔を上げて兄さんを見た。行儀悪く椅子の上で膝を立てて、課題のプリントを前にうんうん唸っている。眉間にシワを寄せて唇を軽く尖らせているのは兄さんの考え込んでいる時のクセだ。そこからもう少し視線を上にずらすと、風呂上がりでまだ湿った髪を押さえている銀色の髪留めが目に入る。 少し前長めの前髪にブーブー言ってる時に勝呂君が兄にくれたものだ。確かあの時彼は貸してやるって言ってた筈だけど、結局借りたまま今まで来てるらしい。兄がかなり気に入っているのは初めから丸わかりだったから、彼としてももうあげたつもりでいるのかもしれない。 視線は兄に向けたまま思考だけ深く沈む。教師でありかつ出来のよい兄思いである弟と自分の「本性」。兄さんはいつだって何も知らない。それでいい。 最近疲れもストレスも溜まっているせいか、今日は少し後者に興が乗った。 閉じた本をベッドに残して立ち上がる。相変わらずプリントにかじりついている兄さんの後ろから机に手をついて手元を覗き込む体勢を取った。 「うぉっ!びっくりしたぁ」 今更のように兄が驚いた顔でこちらを見るが、すぐに気にしない体でまた手元に視線を戻す。無防備だな、体も、心も。自分を許しているとわかる。 「さっきから進んでないね」 「見てたのかよ…嫌みと説教なら聞かねーぞっ。陰湿メガネめ」 「……どこがわからないの」 「ここ」 敵意丸出しで噛みついてきたのを受け流すと素直に指差してみせる。軽く覆い被さるようにしてプリントを覗き込み、二、三要点を教えてやれば頑として動かなかったシャーペンがたどたどしくだが動き出した。 「ねぇ、兄さん」 「んー?」 「これ、返さないの?」 「んー」 これ、と言って頭の髪止めを指でつつく。しかし問題に意識が持っていかれてるのだろう、返ってくるのは生返事だけ。 「取っていい?」 短く尋ねて返ってきたのはやっぱり生返事だったが、僕はそのまま髪留めを取り上げてしまった。生乾きの髪が癖に従ってぱさりと落ちる。流石に兄さんも気づいて椅子ごとこちらを振り返ってくる。 「ちょ、何すんだよ!」 「…何って…」 面白くない。兄が誰かから貰ったものを気に入るのもそれを毎日僕の前でつけているのも面白くないそうやって他の誰かと仲いいのを見せ付けられている気分にすらなって面白くないんだよ。 …なんて。 勿論そんな「本性」兄が知るはずも無ければ僕も晒す気はさらさらないので片目を軽く眇めるに留める。ふー、と深いため息を吐くと何も悪くない筈の兄さんがびくりとして情けない顔で何だよぅと繰り返している。と、思えばあっと小さく声を上げ、得意げな笑みに変わる。 「お前もそれ欲しいんだろ?凄い便利グッズだもんなー。仕方ない!惜しいけどやるよ、俺今度また買ってくるから」 「やるよってこれ、借り物でしょ。勝呂君からの」 ぴしゃりと言ってやると嬉しそうに揺れていた尻尾が主人と一緒にがくりとうなだれた。一応借り物だっていう自覚はあったんだね。 「明日、返しなよ」 「え―」 「じゃあ僕から返しとく」 「…なんか、お前怒ってる?」 「別に」 体を起こしながら短く返すと、兄は兄で借りパクを怒られていると勘違いしてくれたようで、渋々差し出された手の平に髪留めを返してやった。 *** そんなやり取りがあってまた数日。結局返さずにいた髪止めは、合宿中のネイガウス先生との一件で壊れてしまったらしい。グール騒動があった大浴場から一人遅れて部屋に帰ってきてその事に気付いた兄さんはそれはそれは落ち込んでいた。 そして合宿も終わり、今日。兄さんは今日も出された課題相手に机でうんうんやっている。塾での授業の後候補生試験の報告書を理事長に提出して来た僕より早く寮に戻ってきた兄さんはもう既に風呂も済ませたらしく、濡れた前髪はことさら重く兄さんの目元に垂れていた。まるで貧乏揺すりのように尻尾の先で床を叩いているのは問題が解けない苛立ちだけではなさそうだ。 「ただいま」 「おかえり」 部屋に上がって大分暑く感じるようになってきたコートを壁に掛けるとポケットから包みを取り出してビニールをむきながら兄の元へと歩み寄る。 兄さんの背中は相変わらず無防備だ。 「動かないでね」 「うぉあ!?」 変な悲鳴は気にせず後ろから伸ばした手で兄の重い前髪を持ち上げ軽くひとねじりして頭頂部に押し付ける。そうしてまだバネが強いダッカールを開くと髪の間に差し入れてパチンと止める。こんなの人のはおろか自分の髪にもしたことなかったけど、意外と上手く出来た。兄さんと言えば何されたかわからないらしく呆けた顔でこちらを見上げてきていたから、にこりと笑いかけてやった。デコと共によく見えるようになった青の瞳が一つ瞬く。 「あ?え?どうしたんだ、これ」 「買い物ついでに買って来たよ。このままじゃ目悪くなっちゃいそうだし」 ぺたぺたと頭の上の髪留めを触りながら言うから、取れちゃうよとその手を取って止めさせる。 「あ、金…」 「いらないよ。あげる」 「おー…」 ありがとう、とポツリとお礼が返ってくる。どことなくその顔が赤い。だからどうして照れるのかな。兄弟だろ。 なんて、その横顔に酷く満足している僕が言える筈があるわけない。 大事にしてよ、と代わりに言ったら兄さんは嬉しそうに勿論と笑ってくれた。 かなわないよ、貴方には。その笑顔に、死んでくれとは言えても愛しいとは言えない僕が笑われているように感じた。 ―――― 二巻88Pで吹っ飛んだはずのヘアクリップが同巻187Pで戻ってきている件について。 雪男の独り相撲っぷりは公式ですが(それだと私が面白くないので)気持ち雪燐風味に。 |