これから、先
『じじいー、なんだよそれ』
『見たことないか?星座早見盤だよ。こうやって回して日付合わせると今日見える星座がわかる。…ほらな』
『すごい…』
『雪男、こういうの好きだろ?ほら、やるよ』
『え?…わ、いいの?』
『……かせよ!』
『うわっ…何するんだよ、にいさん』
『おれのほうが兄ちゃんだから、これはおれが持つの!ゆきおにはおれが教えてやる。えーっとな…あれが……
星なんてわかりもしないのに、気の弱い弟からぶん捕った早見表片手に得意げに星を指差す自分を、養父はどんな表情で見ていたのか。記憶は曖昧にそこで途切れて思い出せず、また養父が亡くなった今となって聞く縁もない。
どこに行くかも知らされずただ養父の怪しい友人とやらに言われるまま修道院を出る日が決まり、その荷造りをしていた時だった。過去の物として他の雑多な品々を一緒におざなりに詰め込んでいたダンボールを開くと、下の下、底の方にそれはあった。
外は葬儀の時のまま暗い雨が降り続いており、蛍光灯の白い光がやけに目に痛い部屋で、少ない私物を広げたその真ん中に座り込んだ燐は手の星座早見表を指でなぞってみた。使ったのはあの時の一回だけだったせいで、角も綺麗で年代ものとしては真新しい印象を受ける。
これが弟の手にあれば、きっと使い込まれていたんだろう。養父の言う通り、雪男は図鑑やそういった類のものが好きだった。勉強家な弟の本棚には幼少の頃から好んだ図鑑がいつも綺麗に並んでいた。といっても燐と同じ日にここを出ることが決まっている今はもう整理されていて、本棚はがらんとしている。
ふとあの図鑑達はどうしたのか聞いてみたくなった瞬間、部屋の扉が開き渦中の弟が顔を覗かせた。
燐はぼんやりした顔でそちらを見る。
「兄さんそろそろご飯…何やってんの?」
「んー…荷物整理」
燐が出て行くことはとうに弟に知れているので、雪男は納得したような顔でドアを閉めると燐のそばへと寄ってきた。それに手にしていた星座盤を見せる。
「お前、これ覚えてるか?」
「あぁ、懐かしいね。とうさんが兄さんにあげたやつだろ」
「ちっげーよ。お前が貰ったのを俺がとったんだろが」
「そうだっけ?」
柔らかい表情をするのが面白くなくて唇を尖らせるが、弟は不思議そうに首を傾げるだけだ。渡されるまま、雪男がそれを受け取る。
銀や鉄で出来てるわけでない、厚紙にプラスチックが重なって留まっているだけの星座盤。それに目を落として丁寧な手付きで回してみせる弟の横顔を見て居られなくなり、燐は視線を逸らす。俄かに手持ち無沙汰になって、呼ばれた理由も忘れて整理を再開しながら燐が口を開く。
「…お前、本どうした?」
「え?」
雪男が顔を上げて燐を見る。
「本棚のだよ。沢山あったろ」
「あぁ…今も使えるやつが殆どだから寮に送ったよ」
「図鑑は?」
「図鑑?」
兄の言いたいことがわからず、雪男はますます首を傾げる。それに苛立って、燐はだから!と声を荒げた。
「虫やら草やらの図鑑だよ。昔ジジイに貰ってただろ!」
「あぁ。そっちなら処分したよ」
処分した。
柔らかい声が燐の心臓を強く締め付けた。痛い。
「近くの児童図書館に貰ってもらった。全部ね」
「そ、うか…」
「ここには多分もう、戻って来ないから。…兄さんも、そうだろ」
雪男の眼鏡の奥の目が細められる。しかしダンボールの中に視線を落としたままの燐は気づかなかった。体に巻きつけて隠している尻尾が黙した口に代わって動いてしまいそうになるのを強く拳を握って耐える。
修道院は故郷であるが、家ではない。出たら最後、戻る場所ではない。戻る場所は自分でこれから作るのだと、思えば養父は何度も自分に教えていた。
弟はわかっていた。
星座盤は星を示す。星は昔から、道を示すものであるという。
自分はわかっていたつもりだった。胸が、心臓が痛い。わかっていなかったのだと、弟に教えられてわかった。
「兄さん?」
沈んだ様子の燐を気遣って、雪男がそう声をかける。
それが情けなくて、感情をぐっと喉の奥へ押しやると燐は振り返って腹減ったと一言告げた。
「腹減るとどうにも沈んで駄目だな。飯出来たんだっけか?」
「あ、うん…」
何か言いたげな弟を残して立ち上がる。胸はまだ痛みを訴えていたが、もう大丈夫だ。笑顔を弟に向ける。
「そうそう、それ今更だけどお前に返しとく。処分して貰っても構わねえから。今までごめんな」
「え!」
途端困ったような顔をする雪男を気にせず、部屋のドアを開いた。固まってしまった雪男を待てば変に深い溜め息を吐いて立ち上がり、食堂とは逆に歩いていく。
「どこ行くんだ?」
「とうさんの書斎。そこに置いておけば悪いようにはされないだろ」
「あー!」
確かに。相変わらず弟は頭がいいと思う一方で、その背中が嫌に刺々しくて首を捻る。しかしいくら考えても、長くとったままだった星座盤のことを怒っているのだとしか結論が出ない燐は知らない。
兄が持っていた物なら何物も無碍には出来ない、多少行き過ぎた恋心を持った弟の、苛立つ理由など知るよしもない。
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