Prologue


「TH」プロローグ部になります。小説担当黒蟻。
なお本編ではこの部分はのづきによる漫画になります。

 
 
 
 

 その建物は変わらずそこにあった。正十字学園高校旧男子寮。

 その前に立って、燐はぼんやりと首を上げてそれを見上げた。

 あたりは夕闇が迫っていて、その寮にも大きな影が落ち陰鬱な雰囲気を増していたが、それすらも燐にとっては懐かしいものだった。春の夕暮だ。

 ここに初めて足を踏み入れたのも、ちょうど今時分だったと思いだす。思い出して胸がずくりと痛むから、燐はその扉に手をかけるのを躊躇した。

 しかし結局はその手をドアノブにかけた。ぎ、と鈍い音を立てて開いたものが、本当は何だったのか。燐がそれを知るのはもう少し先になる――。

 

 

 その少し前、同様にこの扉を開いた者がいた。

 まだ襟の固い正十字高校の制服を身にまとい、入学式とオリエンテーションを終えたその足で青年がここを訪れたのは、少しの興味からだった。同級生はここの存在すら知らない。その中で彼がまっすぐにここに足を向けられたのは、偏に彼の祖母から話を聞いていたからだ。

 忙しい両親に代わって自分を育ててくれた祖母は、よく夢枕に色々な話をしてくれた。その内の一つが、祓魔師の話だ。

祓魔師。エクソシスト。悪魔を祓い人との調和を守るもの。

 祖母も祓魔師で、彼が住んでいた家もまたそういった人種向けの店をやっていたにも関わらず、彼にとってそれは同じく夢枕に語られる遠い国の民話だとか童謡だとかと一緒で、どこか遠い世界の話だった。だから、自分が生まれてすぐ死んだ祖父が卒業したという高校に入ったとしてもその実感がない。あるいは彼が住んでいたというここを訪れれば、何らかの感慨を得ることができるのではないかと。そんな期待を持っていた事に、青年はこの場に足を踏み入れて初めて気付いた。

 歩く廊下が話以上に古く感じられたのは、月日が祖母の頃より更に重なったせいだろう。そこには年若い青年が想像するには難しい時の流れがあった。時折木目がギシリとなる。中は薄暗い廊下をそのまま歩いていくと、目当ての部屋はほどなく見つかった。扉を開けば、部屋の中は廊下に比べれば明るく、オレンジを通り越して赤い夕陽に照らされた埃がちらちらと舞うのが見える。下を見ればどうやら靴を脱いで上がる造りのようだが、埃の積もる床を見て、靴のまま失敬することにした。

 部屋にあがって、ぐるりと視線を巡らす。まず目立つのは丁度正面にある大きな学習机だ。椅子が二つあるところを見ると二人部屋だったらしい。それから壁に埋め込まれる形の備え付けの寝台と、足元には枯れた瓶。どれもがらんとしていて、当然そこの持ち主の気配など微塵もない。期待していたような感慨は湧かず、帰ろうとしてふと窓の外に目が奪われた。

 汚れたガラスの向こうでは丁度陽が、最後の一閃を残して消えていくところだった。

 窓の前の机に手をついて、夕陽の残り滓をぼんやりと眺めていた。そうして随分時間が経っていた事に気付いたのは、不意にぱちっと音がして、部屋が蛍光灯の白い光に包まれその眩しさに驚いた時だ。目を細めながら振り返って、細めていた目を見開く。

 

 祖母の世界の遠い話。いつだってその主人公だった人が、立っていた。

 

 

 

***

 

 

 燐は咄嗟に声が出なかった。とうとう自分は狂ってしまったのだとさえ思った。だって、まさか。そんなはずはない。

部屋の明りのスイッチにやった手も下ろせないまま、頭の中ではただ意味の成さない言葉が浮かんでは消えていく。

何故?何故彼がここにいる?彼は死んだ。自分が守り切れずに死なせてしまったのだ。この腕の中で彼は血まみれになって息絶えてそして――。

 ありえない。空転した思考ですらそう結論付けられているのにも関わらず、意識の外で口が勝手に呼び名を紡いだ。

 

 「ゆ、きお…?」

 

 目の前、机に手をついて窓の外を眺めていたらしい青年は振り返った姿勢のまま、燐の呼びかけに一度目を丸くした。しかしそれは一瞬で、燐の記憶のまま、柔らかい笑顔を見せると、兄さん、とその唇を動かして燐を呼んだ。それだけで、まるで心臓も肺も一緒に握り潰された様な心地がする。

 

 「何で…ここ…に…?」

 「僕が僕の部屋に居ちゃ変かな?」

 「や、変って言うか…あれ?え?」

 

 参った。この可愛くない物言いすら、記憶のままだ。混乱する頭の中でそう思う。

 同時に蓋をしていたはずの想いが溢れだし、じわりと燐の目尻に涙が滲む。慌てて顔を伏せ、何度も目を擦ってやり過ごそうとする燐にふと影が落ちた。顔を上げれば、すぐ傍に懐かしい顔。穏やかに自分を見降ろす目。体中の血液が沸騰する。

 

 「どうしたの、兄さん」

 「…雪…男…っ」

 

 今度こそ、涙が目からあふれた。ぼろぼろと零れ、首を伝い、襟まで濡らす。

 

 「お、俺…謝り…た…くて…でもずっと…お前の墓…にも…いけなくて…」

 

 止まらない涙。抑えようとして目元を擦る掌が濡れていく。酷い顔をしている自覚は燐にもあった。でも、悲しみと、懺悔の気持ちは止まらない。

 不意に伸びてきた手に、燐はびくっと肩を揺らす。頬の涙を、乾いた指がなぞった。

 

 「…大丈夫、怒ってないから…」

 「…ほ…んと…か?」

 「うん」

 

 そのまま親指の腹で唇を押された。ぞくりとしたものが、今はコートの下にある尻尾の付け根から背筋を駆け抜ける。それは燐の、封じていたはずの歓喜だ。一度弟と触れ合って知ったそれのために、自分は彼の手を離したのだ。

 いけない、と。そう思いながらも、唇で指先を食んでしまったのは半ば無意識だった。視線だけ上げて彼を見て、爪の間を舌先でなぞる。

 指は、抜かれることも、ねじ込まれることもない。静止したままで、燐は少し焦りを感じた。

 そして、指は、ゆっくりと引き戻された。咄嗟に浮かんだのは、このまま、消えて欲しくないという想い。まだ、まだ言いたいことがある。

 しかし燐は動けなかった。未だ「これ」が何か分からない以上、警戒していたのも勿論ある。

 しかしそれ以上に燐は自分自身に恐怖していた。

 死んだ時の姿でなく、高校の、自分たちが一度だけ想いを交わした時期の姿で雪男は現れた。もしこれが、抱えた自分の狂気が見せた幻だったら――自分は相当危ないところにいる。

 

 「ゆき…」

 「兄さん」

 

 意を決して紡いだ声をさえぎって、目の前の青年が自分を呼んだ。ハッとして顔を上げれば、眼鏡越しに真剣に、しかしどこか切なげな眼差しで此方をみる瞳とかち合って堪らなくなる。

 

 「キスして…いい…かな…」

 

 駄目だ。駄目だ、嬉しい。求められている。

 

 「おぅ…」

 

 思った時にはもう、そう答えてしまっていた。

 目を伏せるとぽろりとまた涙が零れた。それを掬った手が耳元をよぎり、後ろ髪に差し入れられて、身体に緊張が走る。勢いのまま引き寄せられたせいか、唇より先に冷たい眼鏡のフレームが燐の顔にあたってしまい、燐は驚き目を開いた後、少し笑った。

 それに面白くないとばかりに眉根を寄せる表情が愛しい。そうだ、愛しいのだ、堪らなく。

 ゆっくりと近づいた唇が触れた瞬間、燐の膝ががくりと崩れ落ちた。慌てて伸びた腕がそれを支える。燐の方から伸ばした手も、半ば反射だった。

 

 「あ…わり…」

 

 自身信じられない気持で、それでも燐が謝罪を皆まで言うより。もっと言えば視線が絡むより早く、ぶつけられる様に再び唇が重なった。戸惑う燐の唇を割って、舌が歯列をなぞる。それと同時に背中に回った腕が強く燐を抱きしめた。三和土に立ったままの燐と彼とは身長以上に差があったから、半ば覆いかぶさられるような形になって、燐の背骨が軋む。一応は抗って閉じたままだった歯列は、しかし何度もなぞられるうちに燐の意識の外で体の力と一緒に緩んでしまった。するとすかさず舌がするりと入り込んでくる。くちゅ、とやたら大きな水音が燐の頭に響いて、どうにかなってしまいそうだった。

 

 「ん…ふ、ぅ…」

 

 どれほどそうされていたのか。それすら分からないほど何度も角度を変えては、長く口づけられていた唇が離れていく頃には、燐の頭はじんとしびれ、何も考えられなくなっていた。自分の両腕もいつの間にか相手の首へと回っており、勿論体中の力はぬけきっている。

 

 「にい、さん…」

 

 呼ばれて目を上げれば、情欲の翳ろう瞳が自分を見降ろしている。恐らく自分も同じ表情しているのだと、頭の端で思った。再び唇が下りてくる気配がして目を伏せかけた時、ふと何気なく弟の右頬を見た。その瞬間僅かな違和感を感じる。

 

 (…あれ?)

 

 一度軽く口づけられ、その唇が涙の渇き始めた頬を掠め、首筋へと降りていく。その一連の動作も、一見流れるかのようだが、どこか隠しきれない拙さがあって、燐はぼんやりした頭の中で首を傾げた。瞬間、ハッとして鎖骨に吸いつこうとしていた身体を腕をつっぱって引き剥がす。特徴ある縦に二つある黒子。記憶の雪男の顔には、間違いなく左頬にあったそれが、その青年には右頬にあった。

 燐の顔が一気に青ざめる。その様子に気づいて、雪男とそっくりな顔をした青年はにんまりと笑った。

 

 「バレちゃいました…か」

 「だ!?誰だ、お前!?」

 「キスまで強請っておいて、誰だは酷くありません?」

 「やっぱり悪魔か!?」

 「やっぱりって…悪魔と思ってキスしてたのか」

 

 酷く不本意そうに眉間にしわを寄せて、違いますよというその顔は、雪男の表情の生き映しだ。悪魔でないのなら、雪男の息子かと咄嗟に燐は思った。しかし彼はここまで雪男に似てもいなかったし、そもそも確かもう40を越えてる筈だ。結婚すらしていて、燐も式に出た記憶がある。確か少し泣いた。いや、泣いたのは娘の方か?

 燐は必至で記憶の網を引き揚げていくが、しかし混乱にのまれて上手く思考は纏まらない。ただ無防備な表情で自分を見上げて来る燐に、青年は深いため息をついた。

 

 「…ホントに、思い出せません?燐・おじ・さん」

 

 その時、雪男の面影に、しえみの柔らかい目元の影が重なった。

 同時に思いだされるのは、今はもう久しく足を向けてない祓魔屋の奥、住まいとして使っている一室だ。そこにいるのは高校の時から姿形の変わらない自分と、今の目の前にいる青年とは違う、きちんと年月分歳をとった弟としえみ、それから彼女と弟の息子。そして生まれたばかりの赤ん坊。

 

 『○○○〜、燐おじいちゃんでちゅよー。こんにちは〜』

 『…兄さん、気持ち悪い』

 『や、やかましい!いいじゃん、可愛いんだぞ!』

 『…それに、又甥にあたるんだから…おじいちゃんじゃ変じゃない?』

 『んー…燐又おじちゃん…猫又みたいで嫌だな』

 『おじさんでいいじゃない。燐おじさん。…いいかい?この人は燐おじさん』

 『ぃー…たーぁ?』

 『っ可愛い!ちっさい頃のお前みたい!!』

 『小さい頃って…自分だって同じくらい小さかったんだから覚えてる筈ないのに』

 『そんなつまんないこと言うなよ。雪男おじいちゃんは恐いでちゅね〜』

 

 渋い顔をする雪男の前で、ぺたぺたと、小さな手を懸命に伸ばして燐の尻尾を平手で叩く生まれたばかりの赤ん坊は、燐の顔を見て無邪気に笑った。

 

 『なんだー?しっぽ好きかー?○○○――』

 

 

 バチッと、記憶のピースがハマり、その他の予想が音を立てて崩れる。崩れたその果てに残った存在を前に、燐は半ば茫然としてその名を紡いだ。

 

 「…せつお」

 「やっと呼んでくれた」

 

 途端嬉しそうに綻ぶ顔。記憶の中の弟と瓜二つのそれに、燐は頭を抱えたくなった。何が悪魔か。何が狂気が作り出した幻想か。出来るならば、今までの自分の言葉を斬ってバラバラにしてまとめて残らず燃やしてしまいたい。言葉だけでなく、行動だって――。

 そこまで考えて燐ははたと我に返り、同時に青くなった。行動。行動こそ、問題だ。いくら間違えた挙句だとしても、50も下の又甥とキスまでしてしまった。

 その時の自分を思い出して、今度は一気に体中の血液が顔に集まってくる。同時にいつの間にか腰に回っていた腕を引き剥がそうと、情けなくも腰が砕けたまま力の入らない体で燐は懸命にもがいた。

 

 「スマン!人違いでした!ごめんなさい!だから離してくれ!」

 「嫌です」

 

 とても覚えのあるいい笑顔で又甥――雪男(せつお)は言った。長年培われてきた弟に対する防衛本能が一瞬燐の動きを止めるも、すぐに抵抗を再開する。燐も必死だった。

 

 「ほんと!本当にスマン!謝る!俺の勘違いだから!!」

 「…僕は勘違いじゃなくなりました」

 

 は?何だって?なくなり「ました」?

 静かな、しかしはっきりした声で雪男が言う言葉の意味が分からず、燐はうっかり顔を上げて後悔した。今自分は相当情けない顔をしている筈だ。実際燐の顔は首まで赤く、眉尻を下げて雪男の眼差しを見返していた。その頬に、雪男の手が添えられる。

 

 「…燐おじさん…好きです…」

 

 そんなうっとりした顔で言われても…。

 燐は泣きたい気持ちでそう思った。わけがわからない。何だこれは。もし彼が、燐が困らせた分困らせてやろうとして言ったのなら、もう十分だ。

 

 「あんな?…謝るから…許して…」

 「違います。僕は本気です。」

 

 二人しかいない、静かな部屋に声が凛と響く。みれば、真剣な眼差しが燐の双眸を貫いて、意識の外で心臓が跳ねる。

 するりと腰に回っていた腕が解かれたが、燐が動く前に両の手が取られてしまった。そのまま雪男が膝をつく、流れるような仕草から目が離せない。真新しい制服のズボンが埃の床について、汚れてしまうと頭の端で思っていると、握られた手がそっと引かれて、顔ごと意識を向けさせられた。その手にぎゅっと力がこもる。

 

 「愛を…誓います」

 

その言葉の後のことは、燐もよく覚えていない。ただ逃げるように寮の部屋から飛びだして、気がついた時にはもう、ホテルの部屋に戻ってきてしまっていた――

 

 


 
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